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日本の15歳、読解力が15位に急落 国際学習到達度調査

 このグラフに一喜一憂するか。
 
 これは日本の15歳の平均値がこうだというだけであって、さあなんとかしなきゃあという風に考える必要はない。
 
 平均値をあげるのは最初から無理である。平均で考えるべきではない。
 
 周囲とは全く違う多様な生活経験をしながら独自の勉強の仕方をしてきた少数派と、世の大勢と同じようなことをして競争しているうちに学力が空洞化した多数派とが存在するだけである。
 
 学力が少数派と多数派に2分極化してその差が拡大したというだけで、全ての15歳がダメなわけではない。
 
 文科省が机上で考えた改革をしたくらいでどうにかなるものではない。
 
 学校教育で何とかできるはずがない。学校や教師にできることは余計なことをしないことだけである。
 
 親の平均的な学力観、教師たちの平均的な学力観、社会の平均的な学力観の結果である。
  
 歪んだ親の学力観による学校や教師に対する圧力が学校をダメにする。
 
 その構図が改まらない限り15歳の平均的な学力の改善はあり得ない。
 
 教師が忙しすぎるからだというのはもっともらしく聞こえるがそれは極めて表面的な見方でしかない。親も社会も変わらなければ意味がない。
 
 ところが、こういう社会環境にあっても「両親共に」しっかりした学力観を持っていれば、15歳には本当の学力が身につく。
 
 まだまだ独自の歩み方をしてきた少数派が存在する限りノーベル賞学者は現れるだろうし、技術大国の地位から転落することもあるまいと思う。
 
 しかし平均の話をしよう。「国語の読解力の低下に象徴される平均的な学力の低下」は大学の平均的な学問水準は低下するだろう、政治の衆愚化はひどくなるだろう、企業の中枢部の小粒化により発想力の低下と競争力低下が進み、教育現場の崩壊は加速するに違いない。
 
 しかし、そういう中にあっても少数派は生き残る。
 
 人生で次々にあらわれる右か左かの岐路で一瞬一瞬他とは違う独自の選択をしていく力があるからだ。それがこの「読解力」に象徴される学力というものではないか。
 
 要するに学校、部活、塾という貧弱な生活経験の中で、机上の勉強ばかりしていて読解力なんかつくはずがない。
 
 紙の上の勉強なんて忘れるくらいでちょうどいい。試験の点数ばかり気にしていては学力がつくはずがない。内申点をあげるために何をしたらいいかなどみみっちいことを考えていて学力がつくはずがない。
 
 そういうものとは全く関係なしに、見るもの聞くものに対して反応する知的好奇心にしたがって独自の探求をしてこそである。試験に出ようが出まいがそんなことは関係ない。
 
 試験前の勉強だって範囲に限っていては勉強はつまらない。範囲が終わろうが終わるまいがそんなことは関係ない。
  
 そういう勉強ができるかどうかである。
 
 じゃあ、親はといえば、親自身が本当の意味での勉強を楽しんできたか。親自身が成績が良かったかとか、学歴がどうだとかそんなことは関係ない。
 
 お勉強を好き嫌いを越えてどこまでも「楽しんで」きた経験があるか。
 
 もしそうであれば、子の勉強に口やかましくすることはなく、塾に通わせることをためらうはずだ。試験の成績は学力のカスだということくらいわかるからである。
 
 子に学力のカスばかりつかませたいと思うだろうか。
 
 文科省の教育哲学に問題がある。学校で教えすぎである。
 
 こないだ中学校の教科書を見せてもらったが、かなり密度が高い。中学校までで、本当にこれだけ身についていれば生きていく上で基本的なことは十分だ。
 
 点数にこだわり、内申点にこだわり、勉強の邪道に走っているから、大切なことは何一つ身につかない。
 
 中学生がいう、体育、保険、技術、家庭、音楽、美術、書道などの「副科目」こそが本命ではないか。
 
 これらの科目をないがしろにして国語、数学、英語、社会、理科の学力がつくはずがない。情操や身体を働かせなくては学力は身につかない。
 
 世間が思い込んでいる固定観念を払拭できるか否かにかかっている。そういう発想ができるか。人とは違う独自の発想ができるか。
 
 多くの人が当たり前のようにしていることを「全て疑え」ということである。
 
 文科省でもなければ学校でもない。自分自身だ。親の人生観の問題だ。 
 


by Gonchan2019 | 2019-12-03 23:22 | 虚しい物知りの学力 | Comments(0)

日々心に浮かんだことを文章にしています。言葉と心とコミュニケーション、国際情勢、日本経済、国土防衛に興味があります。


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